そして私は神になってしまった
「君の家に行くのもずいぶんと久しぶりだね」
昼間に降った雨でアスファルトは濡れていてあちらこちらに未練がましく小さな水溜りが出来ている。
その一つを革靴で踏みつけるとバチャリと水音が足元で弾けた。
「ああ…そうだったかね」
友人の言葉はそれと同時で、決して大きくはないその音よりも小さく聞こえた。
「そうだよ、たしか君の奥さんと社員旅行で軽井沢へと行ったとき以来じゃないかな……もう3、4年も前だったな」
「……そうか、もうそんなになるのか」
しみじみと彼は言った。 その横顔は何か疲れているようにも泣きそうにも見える。
なのとなく気まずい雰囲気になってしまったのを感じ、誤魔化すように私はわざとらしく噴出した。
「おいおいどうしたんだ?まだそれくらいしかたっていないじゃないか、もう老人化する気かい?」
軽く笑い飛ばしながら冗談っぽく言ってみるが、彼の表情は変わらない。
「そういえば奥さんは相変わらず美人なのか?始めて会ったときはずいぶん若い嫁さんもらったなと思ったよ」
「はは…そうだな」
会話は弾まない。 まるで一人で話しているかのようだ。
その後も私は彼に様々な言葉を投げかけるが、彼は『ああ』『そうか』しか返さない。
その生返事にどんどん私自身の口数も減っていき、互いに黙り込んでしまう。
居心地の悪いその時間に耐えかねた私はふと彼の妻のことを思い出していた。
初めて彼の婚約者と会ったのは私が家内と結婚して5年たったころだからたしか三十代後半のころだ。
彼はその少し前まで一人身で、私から見ても女っ気のない奴だったが、穏やかで細やかなことに気を使える男で、友人や同僚達からも勿体無いねと言われるような人間だった。
件の社員旅行に行く少し前に結婚するということを聞いて驚かされたものだ。
そして彼が連れてきた奥さんを見てさらに驚いた。
歳は彼より若いはずだがそれでも三十代であったはずなのに、どう見ても二十代に見え、本当に綺麗に笑う女性であった。
あとで彼自身に聞いてみるとやはり良いとこのお嬢さんだったらしい。
あまりにも私達が騒ぎ立てるので同行していた私の妻の機嫌が悪くなってしまったので少々高い買い物をする羽目になったのを思い出す。
その後に愚痴とからかい交じりでそのことを言うと恥ずかしそうに苦笑していた彼の顔もよみがえる。
だが今の彼の表情はあの時とはまったく違う。 何か大きな秘密を隠しているようにこわばり、複雑な感情が表面に浮かんでいるように見えた。
やはりここ数年で何かあったんだろうか?
私はそっと彼の横顔を見るが、視線は前方の斜め下に向けてチラリとも動かない。
まるでそれ以外の思考を全て一つに向けて考え込んでいるようだ。
そういえば彼が社内行事に参加しなくなったのはそれからだったな。
それまでは毎回参加していたはずだったが…。
いつも誘うのだが彼はなんだかんだと理由をつけて参加しようとはしなかった。
今年の春の旅行が企画されたときも彼は申し訳なさそうに辞退すると伝えてきて、皆で説得されても申し訳なさそうに笑いながらそれでも断ってしまう。
何か事情があるのかと思い、今日私は半ば無理やりに誘って自分の馴染みの居酒屋へと彼を連れていくことにした。
彼は最初すぐ帰ると言っていたが、それでも私がしつこく酒を飲ませていくと、ポツリポツリと口数が増えていく。
「そういえば君とは同期で昔はよく酒を飲んでは笑っていたな」
「うん?そういえばそうだな、お前が結婚してからは本当に飲みに行かなくなった、でもまあ綺麗な奥さんが居るから仕方ないかな?」
酒がほどよく回って軽口を叩く私の言葉に彼は黙りこんでいるが、
「綺麗か…確かに彼女は綺麗だったな…なあ君、どうやら私は大分酔ってしまったようだ…これから私の家に来てくれないか?」
「それはいいな!久しぶりに君の奥さんの顔でも見て癒されようかね?最近俺の家内はヒステリックでしょうがないんだ」
意外な提案に私は機嫌よく了承した。 実を言えば今日の出社時に妻とつまらない言い争いをしてしまったので家族が寝静まったころに帰りたいと思っていたのだ。
「それじゃ会計を済ませるとしよう……今日私は本当に酔っているのだから」
そしていま私達は彼の家に向かって歩いているのだが。
彼の顔を見てみる。
家に近づくにつれ気のせいか彼の表情には憂鬱の色が見えてくる。
気のせいだろうか? 大抵の人間にとっては我が家とは安心するところのはずなのだが…。
彼のその言葉を見ているとなんとなく言葉が出てこず、先ほどとは違って私は無口になった。
彼も何も喋らずにいて、私達はすっかりと暗くなった夜道を静かに歩いている。
昼間に雨を降らした雲はきれぎれと浮かんでいて、月を隠していたが星明りに照らされて道は意外に暗くない。
虫の声は涼やかで、濡れた道によって暑気が払われて夜風が心地よいのだが、それでも彼との間にある無言の静寂が居心地の悪さをはらってはくれない。
「一つ言い忘れていたけれど…これから家に着いても適当に私に話をあわせてくれるかい?」
唐突な話に一瞬面食らってしまったが、彼から声をかけてくれたことがありがたく、私はわかったよと答えた。
それから彼はまた一言も口を開くことが無かった。
その間、私は私で先ほどの彼の言葉を頭の中で考えていた。
話を会わせてくれとはどういう意味だろうか?
酒は飲んで帰ってきたが、まだ九時前だ。
そこまで遅く帰ってきたといわれることでもないだろうに…。 それとも奥さんがあまり家に人を上げたくないくらい人見知りするのだろうか?
前にあった奥さんからはそんな感じはしなかったのだが。
「着いたよ…………ここが私の家だ」
彼の家は……普通だった。
とくに広いわけでもなく、かといって狭いわけでもない普通の一軒家だ。
しいてあげればずいぶんと手入れをしているのでよほど愛着があるのだなという印象を受ける。
玄関に鍵を差込む時に彼は一瞬止まったが、すぐに玄関の扉を開く。
「いま帰ったよ」
するとすぐに奥さんが出てきた。 小奇麗な姿をして昔と変わらないように見えるのだが、前に知り合った時とは何か違うように思える。
しかしそれが何なのかは私にはわかりかねた。
「お帰りなさいませ、救世命様…あら?そちらのお方は?」
「ああこちらは私に前世から仕えていた親衛隊長のサーマーだ、お前も前にあったことあるだろう?おっとそのころはまだ覚醒していなかったが」
「まあ…そうでしたの!ようこそいらっしゃいました。まだ私は覚醒が足りませんのでサーマー様のことは思い出せていませんの、申し訳ありません」
そう言って足元にひれ伏す。
……なんだこれは?
救世命とは? 私の名前がサーマーだと?
彼もそうだが、彼女も何を言っている?
覚醒? 覚醒とはなんだ? いったいこれはどうなっているんだ?
「いや…私は…」
途端に彼が私の肩を掴む。
それはギリギリと爪が食い込むほどの力で。 驚いて振り返る私に彼は真剣な顔で首を横にふる。
なにも言うなということなんだろうか?
「い、いえ…お構いなく」
その気迫に推され、わけもわからない私はそう答えることしか出来なかった。
お互い黙り込みテーブルにつくと、彼が奥さんを呼び止めて何か持ってくるように言う。
奥さんが台所に消えると彼は寂しそうに私と話し始めた。
「すまないね…驚いただろう?」
「い…いや、まあ…ね」
なんと返していいかわからず口ごもっていると奥さんがよく冷えたビールを持ってきてくれた。
ビールの栓を開けて奥さんがコップにビールを注いでくれて一気に飲み干す。
よく冷えたビールはどうしてこんなに美味いのだろうか?
そんなことを思いつき口に出してみた。
「いや~美味いですね。なぜこんなに美味いんでしょうか?奥さんがいれてくれたからかな」
気まずい雰囲気を払拭しようと軽く冗談を言ってみたが、
「私のような凡人には神の飲み物を美味しくする能力などありませんわ。ただ美味しくなるように冷蔵庫の前で毎日祈りをしているだけです。美味しくなれと祈ればどんなものも美味しくなりますものね?」
「そ、そうですか」
「浩子、湯浴みをするから用意してくれないか?後はもう寝室で瞑想してなさい」
「はい…かしこまりました。それでは失礼いたします」
予想外の言葉に驚いていると彼が助け舟を出してくれた。
「大丈夫か…?すまないね」
「いや…その…奥さんはどうなってしまったんだ?」
彼はグラスにビールを注ぐ。 一口飲んだ後に軽くため息をつき、話してくれた。
「もう何年も前のことだ。妻がある新興宗教に入信してしまってね。君も知ってるだろう?テレビで散々取り上げられたのだから」
そういえば何年か前にニュースで強引な勧誘方法と修行中の信者を殺してしまった宗教団体があったことを思い出した。
その当時はあんないかがわしい宗教に嵌る奴ってのはどんな人間なんだろうなと笑っていたが、まさか自分の友人の奥さんが嵌っていたとは思いもしなかった。
「そう…それだよ。その当時妻は実家のお母さんの病気で悩んでいてね、私も仕事が忙しくてかまってあげられなかったから余計に疲れていたんだろうな」
目線を下げる中年の男のその様はとても痛々しく見えた。
「友人からその団体の道場に行ってそこで色々と言われたらしい。先祖の因縁とかと脅されてすぐに修行の合宿に行ってしまった。私には旅行と言っていたがね」
そこで一息にグラスの中味を飲み干し、ひときわ大きくため息をつく。
「なんで私はあの時いいよと言ってしまったのだろう」
苦渋に満ちた顔の彼のグラスに瓶を取り、ビールを注ぎ込む。
黄金色の液体はシュワシュワと心地よい音を奏でているが、それは今はこの場ではかえって雰囲気を重くしているように思えた。
「それで?どうしたんだい?」
私は彼を促した。
気分を害さないように。 慎重に。 真剣に。
「ありがとう…そう、妻はその合宿から帰ってきたんだ。帰ってきてからの妻を見たとき私は驚きを隠せなかった。ボサボサの髪に疲れ果てた顔、しかし目だけは異常にギラギラとして…。まるで飢えた獣のようだった。それからの妻は別人だよ。毎日貯金から金を取り出して有難い仏像や壺を買ったり…ああそうそう聖なる食べ物だとか言って豆腐の出来損ないのようなものもあったな、とにかくそうやて買って来るものだから私が気づいたときにはすでに貯金が底をつき、借金まであったよ」
私は言葉を失い、黙ってグラスの中のビールを飲み干した。
すっかり酔いは覚め、喉が緊張したときのようにカラカラと乾く。
「私は当然妻を詰問した。そのたびにケンカになる。思わず妻を叩いてしまったことも何回かあるよ、それでも妻はわかってくれずに現世のためとか人類のためとか言ってまた借金をして色々なものを買ってくる」
私は言葉を失う。 声は出ず、くぐもったうめき声が喉から漏れる。
「しかし…その…専門家とかには相談しなかったのか?」
それでも何とか絞り出した言葉を出すが、彼は力なく首を横に振った。
「そんなことは出来なかった。彼女は良いところのお嬢さんでね、私との結婚も半ば強引に認めさせたようなもので彼女の両親は私のことをよく思っていないんだ。そんなときに妻がそうなってしまったと言ってしまったら彼女と引き離されてしまう……そう思えばどこにも相談などできなかったんだ」
「そ、それじゃ…奥さんは今も…まだ…?」
再度首を振り、彼は私の想像を否定する。
「いや…彼女はもうその宗教からは脱会しているよ……というより別のものに移ったというほうが正しいか」
「それあ彼女は今は別の宗教を信じているのか?」
「それもまた違う。彼女はもう宗教団体には入信していないよ」
真剣な顔に気圧されながら私は疑問を口にする。
「それじゃ…それじゃ…彼女のあれは…なんなんだ?どう考えても異常じゃないか!君の事を救世命だなんて……まさか」
彼は私の言いたいことを理解したようで真顔で頷き、そして言った。
「そう…妻が信じているのは私自身だ。正確に言うと私が彼女の教祖になった。ただ信者は彼女一人だけだがね」
私はただ黙りこむ。 動揺を隠そうとグラスにビールを流し込もうとするが手元が震えてしまい少しこぼしてしまった。
慌てる私にふきんを渡しながら彼は穏やかに口を開く。
「そう驚かないでくれ。無理も無いが…なあ、君は私が狂ってしまったのではないかと思っているんだろうが…私は正常なのだよ」
自分が教祖になったというのはどう考えても正常ではない。
しかし彼のその穏やかな声を聞き、少し落ち着きを取り戻した私は当然のことを質問した。
「なぜ…、そんなことを…?」
彼は上体を起こし、天井を見上げる。 そして大きなため息を吐きだす。
「何故…か、当然だな。しかし私にはこの手しかなかったんだ。彼女が教団に入ってから2ヶ月くらいしてだったかな?私は書店である本を見つけたんだよ。どうに彼女を昔のようにしたいと思って宗教関連の本や脱会カウンセラーの本を探していてそれを見つけた……」
視線を上に上げたまま彼は一度瞼を閉じて沈黙する。 私はその間、身じろぎ一つせずただただ彼の次の言葉を待ち続けた。 やがて彼は目を開けると、
「君は宗教団体がどうやって一般人を信者にするか知っているかい?」
問いかけに私は深く考える。
時間をかけて説得? いやそれだけで信者になるならこの世は信者だらけだな。
「それでは何か特別な方法があるんだろうか?信じていない人を信じ込ませてしまうような方法が…?」
私の言葉に彼は目を細める。 何故だかその仕草が私の緊張をさらに研ぎ澄ませる。
「答えは一つ…洗脳だよ」
「洗脳?」
オウム返しに聞き返す。
「そうだよ…洗脳だ。まずどこかに監禁して徹底的に今まで培った価値観を否定する。そして空っぽになった頭に新しい価値観を植えつけるのさ、自分たちに都合ののいい価値観を…ね」
「し、しかしそんな簡単に考えを変えさせることが出来るのか?」
「私の妻は一週間で全て変わって帰ってきたよ」
「…………」
黙りこんでしまう。
彼の話が本当なら確かに彼の奥さんは2週間で変わりはててしまったのだ。
「し、しかし奥さんはその宗教団体に洗脳されたんだろう?なぜ今度は君を崇拝しているんだ?」
彼はグラスにビール瓶を傾ける。 しかしビール瓶からはビールは流れてこなかった。
「空っぽか…新しいのを出すよ」
そう言って彼は立ち上がり、冷蔵庫へと向かう。
その間、私は彼の答えを待ち続けていた。 自らの質問の答えを早く聞きたかったが、なぜかそれを表すことははばかられた。
しっかりと冷えて水滴のついた瓶を持ち、それを開けて己のグラスに出すと、炭酸の泡が弾ける音が静かな部屋に木霊する。
「さてと…質問の答えだがね?簡単なことだよ。私が彼女を再洗脳したんだ」
それだけ言ってビールを一気に流し込む。
「な…なん…だって」
私は絶句した。 薄々はもしかしたらと思ってはいたが、はっきりそれが確定してしまうと何も言えなかった。
「勘違いしないで欲しいのだが…私はあの教団のように信者を増やしたいとか世界を救おうなんてことは考えていないんだ。ただ…ただ妻と二人きりで慎ましやかに毎日を過ごしたい……ただそれだけだ」
「それじゃ…なんでそんなことを?」
途端に彼の顔が更に曇る。 泣き出しそうにすら見えた。 自分が何かひどいことを言ってしまったのではないかと狼狽してしまうほどに。
「仕方なかった…のさ。君はカウンセラーの脱会させる方法を知ってるか?多くの場合彼ら自身もまた宗教人なのだよ、神父だったり、お坊さんだったりね」
彼は一度言葉を止めてじっと私の顔を見る。 『そのまま続けて』という意味を込めて私もまた彼の瞳を見つめる。
「脱会カウンセラーの仕事というのは危険なカルト宗教から穏健な宗教に入信させるのが仕事なんだよ。神を信じてしまったら昔のようには戻れない。常に神というものを意識し続ける人間になってしまうそうだ……だがね」
一度そこで言葉を区切ると彼の様子が変わった。 先ほどまでの嘆き悲しんでいる様ではなく、理不尽と憤慨を瞳に込めて憎しみを吐き出す神のように。
「だが私にはそれが我慢ならなかった!私の幸せはその神という概念に壊されたのだ…いくら穏健とはいえ神を信じる行為がどうしても我慢ならなかったんだ!」
「だ、だから…」
「そう…私は神になることにした」
沈黙が部屋の中を支配する。
「もちろん私も最初はそんなこと望んでなかった。しかし私は彼女を監禁し、神を否定させようと説得をしたがどうしても彼女は納得しない。そこで出会ったのがさっき言った本だよ。本にはカルト宗教がいかに人々を洗脳していくかを詳細に書いてあった……私はこれを利用しようと思ったんだよ」
「そ、それで…」
緊張して喉は張り付くように渇く。 何度もビールを流し込むがまるで飲んだ先から消えているかのように渇きを潤すことが出来ない。
ヒリつく痛みと激しくなる心臓の鼓動が耳朶に入ってくるが、それでも彼の話から私は少しも気をそらさなかった。
「まず私は監禁した彼女の食事を意図的に減らしていった。そして教義の矛盾点を徹底的に突いた。幸い件の教団は有名だったので資料は沢山あったからね」
その時を思い出しているのか、笑っているようにも怒り狂っているように口端を僅かに上げているがその言葉は落ち着き払っていた。
「最初は彼女も反論してきたが同じ質問を何度も何度も突きつけて疲労させ続け、食事を減らしているから慢性的に栄養不足になった脳は能力が落ちてきて暗示にかかりやすくなってくる。やがて彼女は何も答えられなくなってきた」
想像してみる。 この現代において飢えることなどほとんどない。 今まで味わったことの無い飢餓といつ終わるとも知れない問答をしつづけ、いつまでも耐えることが出来るだろか?
その状況を考えてみるとブルリとした震えが走る。
「頃合を見て教義の矛盾を呟けば食事を与えるようにしたらポツポツとだが否定するようになってきたよ。最初はここはおかしいけれど教義自体は正しいんだと言うようになった。彼女の価値観はまた限りなくゼロに近くなってきた……そこで私は次の段階に進むことにした」
淡々と神になる道を敷き続ける彼の話に私はさきほどの怖気も忘れ夢中になっていた。
「そ、それは…?」
「次の段階…それは空っぽになった頭に新しい価値観…つまり私こそが神だということを植えつけることだ」
そこまで話が進んだところで彼の表情は柔和になっていたが、私はそれこそが一番恐ろしく見えた。 この話を聞いているうちに徐々に一つの考えが湧いてくるがそれを必死で否定しながらも黙って彼の話を聞き続ける。
「彼女に私こそが神だと言わせ続けた。とにかく言わせればいいんだ。言わなければ食事を抜き言えば与えた。渋々だろうとそれを口にすることこそが遠まわしに今までを否定することになる。人間、極限状態になると我慢が出来なくなるのだろう、彼女はすぐに唱え続けた。私こそが神。貴方こそが神。 この世で一つの神ですと」
最後の言葉を唱え続ける彼こそが何かの信者に見えた。 狂信者。 あるいは気が触れた人間のように。
「彼女はすぐに何度も言うようになってくれた。そしてそれを一週間休まずに続けさせた、睡眠も食事もトイレも全て削ってね…そして一週間後の朝、彼女はついに涙を流して謝罪した。
『救世主様、私が盲目でした。一生あなたに仕えます…とね、そして…」
一瞬の沈黙の後に…。
「そして私は神となってしまった」
総括するようにポツリと口にした。
「………………」
私は何も言わなかった。 いや何も言えなかった。 そしてその沈黙こそが私が今まで否定し続けた結論への無言の肯定になってしまったのだ。
つまりこの男は狂っていると。
彼は狂ってなどいないと言うがやはり狂っているのではないだろうか?
監禁やろくに寝かさずに自分を崇拝させようとは他人を支配したいという狂人のやることだろう。
しかし私は彼が奥さんを強く愛していたことを知っている。 かつての旅行の時に常に彼が彼女に気をつかっていたことを知っている。
「……ど、どうして私に…?」
彼は下を見ながら黙り込む。 しかしすぐにおもむろに話し始めた。
「なあ…私は幸せだよ。しかし私のやったことは狂人のやることだろう。君の顔を見ればわかる…それでも私は彼女の愛していた。愛しているんだ! 彼女離れるなんて考えられない…ずっと一緒にいたい。だがこの関係に疲れることがある、私はこんな関係など望んではいないんだ。でも仕方なかった…こうするしかなかったんだ、君に話したのは単なるグチだよ、深い意味は無い、ただ誰かに話しておきたかったんだろうな……」
色々な感情がごちゃ混ぜになって涙を見せる彼を見て、私は決心して強く言った。
「……こんことは誰にも話さないよ」
「……ありがとう」
話はそこで終わりだ。 あとはお互いに残った僅かな酒を飲みあい、私は帰途につくことにした。
帰り際に奥さんは玄関の外まで私を見送ってくれた。 彼もまた外に出てきて手を振ってくれた。
帰り際、私は彼の顔を見てみる。
心なしか明るくなっているように思えた。
『愚痴』を言うことによって心が僅かにだが軽くなったのだろう。 奥さんは奥さんで幸せそうに微笑んでいた。
家に帰ると妻が遅くなるのなら連絡くらいしなさいよといつものように文句を言いながらビールを出してくれた。
晩酌用だ。 きっと彼女もまたいつもの喧嘩を引きずりたくなくて用意してくれたのだろう。
「せっかく用意しておいたのに遅いから温くなってしまいました」
その文句を背中に受けながら私はグラスにビールを注ぎ、一息に飲み干す。
ぬるくなったビールは不味いはずなのに、彼の家で飲んだ冷えたものよりも美味い。
「なあ…」
「なんですか?おつまみなら自分で出してくださいよ」
「いや…お前を愛しているよ」
「…! まったくなんなんですか…いきなり…恥ずかしいでしょ!」
ピシャリと言い放たれて苦笑いを浮かべながらふと気づいた。
ああ…これが幸せなんだ。 私にはこれが幸せなのだ。
そして彼にとってもあれは幸せなのだろう。 最大限の…。
彼は幸せを守るために奥さんを洗脳した。 そうするしかなかったのだ。
しかし実際に彼と奥さんは幸せになっているじゃないか。
彼は奥さんを利用しようとも不幸せにしようとも思っていない……ただただ愛している。
それならば彼の行為も許されるのではないだろうか?
私のような凡人にはそう思うことしか出来ない。 そうするしかなかったのだから。
「仕方ない…か」
一言呟いて、ぬるくなったビールを静かに味わうのだった。